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2008年10月23日

●サラリーマンS氏の憂鬱

「お,めずらしい」

いつものバス停からは,普段はS氏一人だけが乗車するのに,いつもどおり定刻3分前にバス停に着いてみると先客が一人待っていた。薄い革鞄と傘を足元に置いて立ったまま新聞を読んでいるサラリーマンである。この些細な変化があのような事件に発展するとは,夢にも思わないS氏であった。

「あれ?」

時間的には普段と変わらず定刻から3分遅れで到着したバスに,サラリーマン氏に続いて乗ったS氏は,さらなる異変に気付く。

「老師がいない・・・」

毎日必ず一番前の座席に座っていて,病院前のバス停で降りるのに,絶対にブザーを押さない脚の悪い「老師」が,今日は乗っていない。置物のような存在だけに,いないと少し落ち着かない。このバス停に停まるバスは1時間に1本なので,路線を間違えたりすることはないはずだが,先客といい老師の不在といい,何かがいつもと違う,と思ったのもつかの間,昨日から読み始めたミステリ小説の続きが気になるのですぐに本を広げ,読書に集中してしまうS氏。

1ヶ月前の時刻改正でダイヤが10分早くなった関係か,渋滞もあまり気にならず次々と停留所を通過していく。この分だといつもより早く着きそうだな,と小説を読みながら考えていた頃に,その事件は起こった。

「なんだ?」

けたたましいクラクションの音に十名ほどの乗客がみな怪訝な顔をする。バスはちょうど幼稚園前のバス停で停まり,数人の乗客を降ろしたところだ。何度も鳴るクラクションはどうやらこのバスかららしい。運転席を見るとちょうど運転手が立ち上がり,降りて行こうとするところだった。

「ぶつけられました!」運転手が言う。「すみませんがちょっとお待ちください」

「え?」事故?と思いつつ,衝撃などまったく感じなかったS氏は小説から顔を上げ,前方を見る。すると大型のSUVが百メートルほど進んだところで左折するところだった。あそこは居酒屋の駐車場なので,どうやらあの車が当事者らしい。

たいした衝撃ではなかったが,ぶつけた車が気付かないわけはないし,クラクションを連発されているのだから,普通であればすぐにハザードを点けて路肩に停車すべきシチュエーションである。あの挙動では怪しまれるんじゃないか,と思ったが案の定だった。

「こんなとこに停まって邪魔なんだけどー」

「ここはバス停だ!停まって当たり前だろう!何考えてるんだ!」

「なんで怒られてんのかぜんぜんわかんないんですけどー」

「なんでって,逃げようとしただろ!」

「はぁ?逃げてないしー,向こうに停めただけでしょー?」

バスから降りて追っていった運転手に連れられて,戻ってきたSUVのドライバーと運転手の会話である。ドライバーは女性で,女性の歳を当てることに関しては10歳くらいの誤差があるS氏の判断では二十台の後半といったところか。最初に聞こえてきた会話から,相当にモメそうな雰囲気がプンプンしている。

降車のため停車しているバスを追い越そうとしてぶつけたシチュエーションである。明らかにSUVに非があるし,衝撃がほとんどなかったので,SUVのミラーかバンパーをこすった程度だろう。素直に謝れば穏便に片付くのになぁ,と思っていたら,女性は携帯電話で通話中である。

「なんかー,めっちゃ怒られてんだけどぉー,わたしぃー」

あちゃー,とバスの乗客全員は呆れ果てた。怒っている運転手の目の前でそれはちょっとないんじゃないの?

当たり前だが運転手は怒り狂い,無線で営業所に連絡して警察を呼ぶことになったようだ。これは時間がかかりそうだな,と思っていると,乗客の一人が「歩いていきますんで」と申し出た。

「そうですか,申し訳ありません。代金は結構ですので」

そういうことなら,とS氏も降りることにした。この後の展開は面白そうだが,ここからだと会社までかなり歩かなくてはいけない。あまりのんびりしていると遅刻してしまう。結局半分ほどの乗客が降りることになった。お年寄りや目的地が遠い人は営業所が用意するタクシーにでも乗るのだろうか。いずれにしろ,時間がかかりそうだった。

「すみませんでした・・・」

バスを降りるとき,SUVの女性から声をかけられた。自分のせいで乗客に迷惑がかかった,という程度のことは理解できたらしい。おそらくコッテリ絞られることになるであろう女性に,しかし同情はできないS氏であった。

「それにしても・・・」

と会社への道を歩きながら考えるS氏。老師はこのアクシデントを予想していたのだろうか?このバスに乗っていたら脚の悪い老師は間違いなく病院の予約に遅れていただろう。結局まだ一度も老師がブザーを押すところを見ていないし,やはり只者ではない。

※この作品は一部フィクションです

前作「サラリーマンS氏の葛藤」