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2005年09月12日

●順列都市で妄想

昨日紹介した「順列都市」の中で描かれる近未来の世界では,脳をスキャンしてその人の「人格」をコンピュータシミュレーションとして仮想現実の中で「走らせる」ことが出来る。同じ仮想現実モノでも,映画「マトリックス」では身体への入出力を仮想現実で代用して,処理そのものは生体脳で行うので根本的に違う技術だ。順列都市の作品中では,生体脳を必要とせず仮想空間の中でのみ生きる前者を「コピー」,生身の人間が仮想現実空間を訪問する後者を「ビジター」と呼んでいる。

ビジターについては現実にいろいろな研究が進んでおり,視力を失った人のために視神経に信号を乗せて物が見えるようにするだとか,運動神経をモニタして「考えたとおりに動く義手」などは実現が間近らしい。簡単なところではHMDやデータグローブというものもあるし,極端なことを言えばテレビゲームのRPGなどもビジターの一種だろう。

コピーは,生身の肉体が不治の病や老衰などで,もはやコピー以外に生き延びる可能性がないときの最終手段として描かれる。仮想空間は現実の世界に似せてあるといっても,プロセッサの能力的限界から,シミュレーションできる範囲は限られているし,同様の理由で現実世界よりも「遅い」速度でしか走らせることができない。作中では最も裕福で自前のスーパーコンピュータを持っているコピーでも,その速度は現実世界の17分の1に「減速」されている。

コピーが実現するかどうかは,脳科学や神経生理学が進歩して,「人間の意識というのは大変複雑ではあるが,脳のシナプスがこのように結合して,こんな風に信号を伝達する一連の流れの中で発生するものである」という結論を下せるかどうかにかかっている。どんなに複雑であろうとも,それが神経細胞の接続と物質や電流の伝達で成り立っているのなら,原理的にはそれをコンピュータのモデルで置き換えることは可能であろう。

私たちは自分に意識があることを知っている。他人はどうか知らないが自分に意識があることは自分のことだから断言できる。「我思う,故に我有り」というわけだ。コンピュータの中のコピーはどうだろうか。「そんなものに意識が宿るわけはない」という意見もあるだろう。しかし,コピーに問いかけてみたら「私には意識がある」と言ったとしたらどうだろうか。当然チューリングテストも合格したとしよう。「そんなのは入力に対してプログラムされた回答をしているに過ぎない」というかもしれないが,それを言ったら人間だって同じようなものである。外界からの入力に対して,どうするか考え,何らかの反応を返す。コンピュータの中のコピーと同じではないか。

コピーの「意識」はどこで発生しているのだろうか。コピーを走らせるコンピュータのクロックを落としていったとする。外界から見ているとコピーの動作はどんどん鈍くなっていくが,コピーから見たら外界の速度が加速されているように見えるだろうが,同じ処理が走っていることには変わらないのだから,同じように自分に意識があると感じることができるだろう。

さて,コンピュータは計算機である。猛烈なスピードで計算を実行することができるが,つまるところ0,1の足し算引き算をやっているにすぎない。ということは,コンピュータで走っているコピーの演算を,電卓でやったらどうだろうか。時間は果てしなくかかるだろうが「筆算」でやったらどうだろう。上に書いたようにコピーの立場からすれば同じように処理されればどんなハードウェアで走ろうと変わりはないはずだ。果たして紙に鉛筆で書かれた計算式に意識は宿っていると言えるのか...。

「そろばんで計算されるコピーにも意識があると言えるのか」という意味のセリフは作品中にも登場する。どうだろうか。順列都市を読んでみようという気にはならないだろうか。少なくともWebmasterは相当シビれた。
しかも上のような話はすべて序盤で出てくるネタである。この後さらに驚天動地の物語が展開される。SFって素晴らしい!